一昨日、北米から名古屋に帰ってきた。
飛行機代をケチった(?)からか、約30時間もかかった帰国の旅。空港に戻り、その1時間後には、仕事の交渉や打ち合わせがギッシリの日常に戻る。トランジットから家に着くまで何も食べず、胃薬だけで過ごしたせいだろう。どっぷり疲れに襲われて、2日間、点滴状態。倦怠感に全身が覆われていた。
若い頃ならば平気だったのに、と正直、自分の歳を感じたりもしたが…。
10/6/23 [ ...続きを読む→ ]
もうじき五月、一気に新緑といった状況にはいたらず、桜が咲いたのさえ幻だったのか? と思うほど寒い日が続き…季節も世の中も、そしてそれにつられたように僕の心も不安定になっていた、この頃。街路にはツツジも咲き始め、ようやく、皐月晴れの空に似うような、眩しく萌える緑も認められるようになってきたが。
ふと思えば、“冬の檸檬”も“なかなか咲けない桜”であっても、その時々の自分の心模様が影響し見せていた風景だった、と今更のように思い知る。しかも、それは鬱々とした塊であったり、心の中でささやかに応援したいものだったり、時間の経過とともに変化しながら、やがて、心の奥底へと沈み、またひょっこり顔を出す…その繰り返しなのだから、我ながら自分勝手としか言いようがない。
しかし、こんなはっきりしない気候のおかげか、あの“やがて自由落下する梅の実”も、まだ落下せず窓の向こう、実り続けている。
10/4/29 [ ...続きを読む→ ]
「九十の端(はした)を忘れ春を待つ 」雑誌を読んでいてふと目に留まった句だ。90歳を過ぎてしまえば91歳だろうが、92歳だろうが、端数など関係なくなり、ただただ一巡り一巡りの春の訪れがありがたく、めでたいのだということらしい。
ある著名な先生の話によると、3月の半までは亡くなる方が多い。春が来れば、もう一年は生きていけそうな気がする、「春を待つ」のはお年寄りに共通する思いだそうだ。
10/3/27 [ ...続きを読む→ ]
明日から3月である。
全てを凍て尽くす冬がようやく終わる頃、繭のようなものが気持ちを覆っているのに気付く。長く冷たい時間が、脆弱しきった魂をラッピングしてしまうのか。これが毎年の僕の3月、まったく奇妙な季節感だと自分でも思うのだが。
10/2/28 [ ...続きを読む→ ]
今年の冬は寒い。
いま2010年2月、節分を過ぎて思うこと。
節分というけれど「一体、何か変わるのか?」ぼくの中で、勝手な疑心が沸いてくる。春など暦の上だけ、雪までちらついているじゃないか。いや、大切な節目のひとつであるとはどこかで理解している。理解しながらも、沸いてきた疑心を完全に否定できずに、心の中、憂鬱な塊となる。まるで冬の京都の果物屋、軒先に並ぶ檸檬のような、なんとも言えない、どうしようもない塊として。ただ世の中が「節分」と言うだけでそのせいにしたくなる。何か青臭い感情の澱み。
特にこんな時は、JAZZだ。
対立軸に存在する憂鬱の塊を意識しながら、あるときはその塊の中に安寧としている自分を感じながら、またあるときは塊を破壊するためのエネルギーとして、JAZZという音楽に浸りきってしまう。今もそこから逃れない自分がいる...。
10/2/05 [ ...続きを読む→ ]
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