もうじき五月、一気に新緑といった状況にはいたらず、桜が咲いたのさえ幻だったのか? と思うほど寒い日が続き…季節も世の中も、そしてそれにつられたように僕の心も不安定になっていた、この頃。街路にはツツジも咲き始め、ようやく、皐月晴れの空に似うような、眩しく萌える緑も認められるようになってきたが。
ふと思えば、“冬の檸檬”も“なかなか咲けない桜”であっても、その時々の自分の心模様が影響し見せていた風景だった、と今更のように思い知る。しかも、それは鬱々とした塊であったり、心の中でささやかに応援したいものだったり、時間の経過とともに変化しながら、やがて、心の奥底へと沈み、またひょっこり顔を出す…その繰り返しなのだから、我ながら自分勝手としか言いようがない。
しかし、こんなはっきりしない気候のおかげか、あの“やがて自由落下する梅の実”も、まだ落下せず窓の向こう、実り続けている。
10/4/29 [ ...続きを読む→ ]
「九十の端(はした)を忘れ春を待つ 」雑誌を読んでいてふと目に留まった句だ。90歳を過ぎてしまえば91歳だろうが、92歳だろうが、端数など関係なくなり、ただただ一巡り一巡りの春の訪れがありがたく、めでたいのだということらしい。
ある著名な先生の話によると、3月の半までは亡くなる方が多い。春が来れば、もう一年は生きていけそうな気がする、「春を待つ」のはお年寄りに共通する思いだそうだ。
10/3/27 [ ...続きを読む→ ]
明日から3月である。
全てを凍て尽くす冬がようやく終わる頃、繭のようなものが気持ちを覆っているのに気付く。長く冷たい時間が、脆弱しきった魂をラッピングしてしまうのか。これが毎年の僕の3月、まったく奇妙な季節感だと自分でも思うのだが。
10/2/28 [ ...続きを読む→ ]
今年の冬は寒い。
いま2010年2月、節分を過ぎて思うこと。
節分というけれど「一体、何か変わるのか?」ぼくの中で、勝手な疑心が沸いてくる。春など暦の上だけ、雪までちらついているじゃないか。いや、大切な節目のひとつであるとはどこかで理解している。理解しながらも、沸いてきた疑心を完全に否定できずに、心の中、憂鬱な塊となる。まるで冬の京都の果物屋、軒先に並ぶ檸檬のような、なんとも言えない、どうしようもない塊として。ただ世の中が「節分」と言うだけでそのせいにしたくなる。何か青臭い感情の澱み。
特にこんな時は、JAZZだ。
対立軸に存在する憂鬱の塊を意識しながら、あるときはその塊の中に安寧としている自分を感じながら、またあるときは塊を破壊するためのエネルギーとして、JAZZという音楽に浸りきってしまう。今もそこから逃れない自分がいる...。
10/2/05 [ ...続きを読む→ ]
はじめまして、PMHのBoss(?)をやってます、村上のりひろです。
ここでは、ぼくの趣味や体験を通し考えてきた、パパママハウスの目指す方向性やポリシーなどを連載
してゆきたいと思っています。
ぼくの一番好きな小説家は、開高健(かいこうたけし)です。
1957年に芥川賞を受賞した小説家で、彼の作品は、大きく三つのカテゴリーに分けられます。
芥川賞時代の純文学、ベトナム戦争従軍記者時代の経験を元に書かれた作品、そして、1989年に亡くなるまでの晩年、アマゾン川、アラスカ、北米、南米、モンゴルなど世界中へ釣りに行った紀行文です。
それと、パパママハウスのエコと何の関係があるのかと感じられる方もいらっしゃると思いますが...。
10/1/29 [ ...続きを読む→ ]
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